2018年7月30日
日本メルロ=ポンティ・サークル第24回研究大会プログラム
日時 2018年9月9日(日)
会場 立命館大学衣笠キャンパス 末川記念会館講義室
(交通手段につきましては下記HPをご確認ください。http://www.ritsumei.ac.jp/accessmap/kinugasa/)
個人研究発表10:00-14:00
10:00-10:45 猪股無限(筑波大学) 司会 國領佳樹
「表現の奥行とシンボルの含蓄」
10:45-11:30 柿沼美穂(東京芸術大学) 司会 中澤瞳
「人間における言語と movement の関係 ——運動感覚に関する実験をもとに——」
11:30-12:30 昼食
12:30-13:15 塩飽耕規(医療法人 遊心会 にじクリニック) 司会 澤田哲生
「セラピストの身体図式を使った心理療法—— 自閉症児のプレイセラピーを例に——」
13:15-14:00 三笠雅也(京都大学) 司会 松葉祥一
「投影同一視はどのような現象?—— BPD をメルロ=ポンティの〈身体論〉から考察する——」
14:10-14:30 ビジネス・ミーティング
シンポジウム14:30-17:30「言語の文学的用法の研究」 司会 廣瀬浩司
佐野泰之(京都大学)
「言語の文学的用法の研究」の射程
——メルロ=ポンティのヴァレリー読解とスタンダール読解が示すもの
森本淳生(京都大学)
『若きパルク』とメルロ=ポンティのヴァレリー講義
片岡大右(東京大学)
政治、〈ヌーヴォー・ロマン〉、愛――メルロ=ポンティのスタンダール論を読むために
全体討議
18:00- 懇親会(山猫軒)
シンポジウム
言語の文学的用法の研究
趣旨
メルロ=ポンティはコレージュ・ド・フランス着任初年度の1953年に「言語の文学的用法の研究」と題する講義を実施している。この講義はこれまでRésumés de cours : Collège de France 1952-1960〔邦訳『言語と自然』〕所収の短いレジュメによってその概要が知られるのみだったが、2013年にEmmanuel de Saint AubertとBenedetta Zaccarelloの編集でメルロ=ポンティがこの講義のために執筆した準備ノートが出版されたことで、そこで行われている議論の全貌が明らかになった。
この講義の特徴は何といっても、ヴァレリーとスタンダールという二人の人物に関してその人生と作品の両面にわたる詳細な読解が試みられているという点であろう。メルロ=ポンティにとって、ヴァレリーは後期存在論の重要概念である「キアスム」の、スタンダールは中期言語論の重要概念である「間接的言語」のそれぞれ主要な源泉でありながら、公刊著作の中で二人がここまで詳細に論じられたことはない。そこで本シンポジウムでは、まず佐野泰之が上記の新資料に即して「言語の文学的用法の研究」講義のヴァレリー読解とスタンダール読解の内容を紹介したうえで、森本淳生氏にヴァレリーとの関係から、片岡大右氏にスタンダールとの関係から、メルロ=ポンティの議論の意義について考察していただく。それによって、メルロ=ポンティの思想の新たな側面を照らし出すとともに、20世紀以降の哲学と文学の複雑な絡み合いについて考えるための材料を提供したい。(佐野泰之)
佐野泰之:「言語の文学的用法の研究」の射程――メルロ=ポンティのヴァレリー読解とスタンダール読解が示すもの
「言語の文学的用法の研究」の講義準備ノートにおけるヴァレリー論とスタンダール論は、資料の性格もあって断片的・暗示的なものでしかないが、それでも両者に共通する読解の筋書きを読み取ることができる。それは、 (1) 精神と身体、あるいは知性と感性の分裂と呼びうるような実存の動揺の経験を、 (2-a) 知性の徹底的な行使、あるいは (2-b) 感性への徹底的な沈潜によって解決しようとするが挫折し、 (3) 言語の長い修練(ヴァレリーにおいては『カイエ』、スタンダールにおいては『日記』の執筆)を経て、 (4) 文学の中で昇華ないし再統合するという筋書きである。本発表ではこの筋書きに沿って講義の議論を手短に整理したうえで、この議論に伏流するさまざまな哲学的背景――文学のアンガジュマンとデガジュマン(サルトル、ブランショ)、両義性のモラル(ボーヴォワール)、「コンプレックス」の創造的取り上げ直し(フロイト)、超越論的言語(フッサール、フィンク)、等々――を示すことで、単なる作家論の枠を超える講義の射程を示したい。
森本淳生:『若きパルク』とメルロ=ポンティのヴァレリー講義
メルロ=ポンティの講義ノート「言語の文学的用法の研究」の全体構想はきわめて明瞭である。明晰な意識による極度の厳密さを求めるあまり、具体的現実における自己、他者、言語、そして文学を拒絶し「沈黙」するにいたったヴァレリーは、しかし「弱さ」から書くようになり、「反=文学」自体を主題とした文学を展開する。メルロ=ポンティによれば、この「沈黙」と「シニカルな文学」の対立は、対話篇『固定観念』(1932)に初めて現れた「錯綜体」の概念によって乗り越えられ、身体の自発性とそれに基づく言語実践としての文学とが肯定されるようになる。この立場はとりわけ最晩年の『わがファウスト』のうちに結実しているという。こうしたほとんど弁証法とも見える議論にはまずクロノロジー上の難点がある。1932年のものと見なされていたにちがいない「錯綜体」を転換の鍵概念としているにもかかわらず、乗り越え後の重要作品として1922年の『魅惑』に収録される「アポロンの巫女」や「棕櫚」が挙げられていること、またそもそも錯綜体の概念自体が少なくとも1908年頃に遡るものであったことなどである。ヴァレリーにおける内的分裂の超克があったとすれば、それはまちがいなく彼の文壇復帰作となった『若きパルク』(1917)においてであっただろう。このヴァレリーの代表作をメルロ=ポンティは「存在することの拒絶」を示す作品と見なしているが、後半部冒頭に現れる「神秘的な私」のテーマは、むしろ分裂する知性とエロスとを身体の深層において包含するものであった。なによりもヴァレリーはこの詩を書くことを通じて詩人としての主体を(再び)獲得するとともに、制作体験のなかからその後に展開される詩学理論をくみ出すことができた。すなわち、『若きパルク』は詩的な主体/作品/理論が同時に生成する決定的なポイントだったのである。しかし言うまでもなく、現在のヴァレリー研究から見てメルロ=ポンティの立論に不備があることが問題なのではない。それどころか「言語の文学的用法の研究」が示す読解は以上のようなヴァレリーの本質的な問題系を鋭く射貫いている。本発表では、メルロ=ポンティの議論の射程を『若きパルク』の読解を通して彼とはやや異なる角度から見極めることを試みたい。
片岡大右:政治、〈ヌーヴォー・ロマン〉、愛――メルロ=ポンティのスタンダール論を読むために
ジャン・プレヴォー『スタンダールにおける創造』(初版1942年)の復刊(51年)は、現象学的傾向の一連のスタンダール研究を活性化させる。アラゴン『スタンダールの光』の出版(54年)は、共産党によるこの国民作家の聖別を決定づける。1950年代は、大学内外でのスタンダール読解が、一方では最先端の理論的アプローチによって、他方では政治的前衛の庇護のもとで、大いに進展した時代だといいうる。そうしたなか、『ヒューマニズムとテロル』(47年)と『弁証法の冒険』(55年)のあいだの時期のメルロ=ポンティは、「人間であることはひとつの党派だ」と語る『リュシアン・ルーヴェン』の著者の仕事に取り組むことで、文学と政治をめぐるどのような理論を定式化しようとしていたのか。本発表ではまた、一方では、哲学者がのちに示したクロード・シモンへの関心、他方では、近年のスタンダール研究における女性登場人物の扱いの再解釈へと議論を結びつけ、53年講義の射程の広がりを確認することにしたい。