2022年7月29日
第28回研究大会プログラム
2022年9月3日(土) 対面開催 龍谷大学・大宮キャンパス(懇親会無し)
龍谷大学大宮学舎東黌(こう)301号室、同303号室
受付:09:15-(係員集合:08:40)
コロナ禍のため大会は人数を制限して行う予定です。大変恐れ入りますが、会員の方以外で参加をご希望の方は問い合わせフォームより事前にご連絡ください。どうぞよろしくお願い申し上げます。
個人発表(303号室)
10:00-10:45 | 三笠雅也(京都大学) | 司会 屋良朝彦 |
「愛着の問題」を抱える人たちの<生き方> | ||
10:45-11:30 | 小林徹(龍谷大学) | 司会 松葉祥一 |
野生への問いかけ:メルロ゠ポンティと人類学 | ||
11:30-12:15 | 柿沼美穂(東京工芸大学) | 司会 中澤瞳 |
芸術家の創造的な知覚と表現の基盤となる身体について | ||
12:15-13:15 | 昼食+事務局会議(301号室) | |
13:20-14:05 | 橋爪恵子(東京大学) | 司会 佐野泰之 |
メルロ=ポンティにおける言語論―時間論を媒介として― | ||
14:05-14:50 | 國領佳樹(立教大学) | 司会 家髙洋 |
メルロ゠ポンティの感覚概念批判 |
個人発表(301号室)
10:00-10:45 | 渡辺亮(名古屋大学) | 司会 澤田哲生 |
見る・見られる関係に於ける、世界内存在の個性的な差異性―セザンヌに寄せて | ||
10:45-11:30 | 常深新平(慶應義塾大学) | 司会 加國尚志 |
メルロ゠ポンティおけるヘーゲル主義 | ||
11:30-12:15 | 野々村伊純(東京大学) | 司会 川崎唯史 |
世界に対する関係としての言語 | ||
12:15-13:15 | 昼食+事務局会議(301号室) | |
13:20-14:05 | 印部仁博(筑波大学) | 司会 澤田哲生 |
メルロ=ポンティにおける生きられた物の充実と実在性について |
15:00-15:30 | 総会(301号室) |
シンポジウム(301号室)
15:40-18:40 | 自己 身体 芸術 メルロ=ポンティとアンリ |
シンポジウム「自己 身体 芸術 メルロ=ポンティとアンリ」
メルロ=ポンティとミシェル・アンリは、いくつもの同じ問題圏に関わっていながら、対蹠的な考え方を示している。その点で、この二人への対質は、問題地平の性質を明るみに出すための手がかりとして、もたらされるものは大きい。折しも、本年はミシェル・アンリ生誕100年を迎え、法政大学出版局より『ミシェル・アンリ読本』が刊行される。このシンポジウムでは、この機をとらえ、2018年に刊行された『メルロ=ポンティ読本』と『ミシェル・アンリ読本』の双方で執筆を担当した三名により、「自己」、「身体」、「芸術」の三つの問題圏をめぐって論じることで、両者の哲学の根本的な性格を剔抉し、あわよくばこの問題圏の新たな展望を開くまでに至れればと考えている。(本郷均)
自己と時間 川瀬雅也
人間の精神の特徴は、一方では、自らの生や諸事象を、いかなる経験的な諸事実にも還元されない「普遍性」や「理念性」として把握できることだと言えるが、他方ではまた、そうした生や諸事象を自らに固有で、決して他と共有できない「特異なもの」として感じとっていることだと言える。つまり、人間の精神は、永遠に通じるような理念性を把握可能であると同時に、他の何ものにも還元されえない〈この私〉の特異性を感じとってもいる。メルロ=ポンティとミシェル・アンリは、とりわけ「自己」や「時間」というテーマをめぐって「対蹠的」とも言える立場に立つが、これらの概念の解釈をめぐる彼らの乖離の背後には、上のような人間精神の二面性に関する力点の置き方の相違があるように思われる。本提題では、メルロ=ポンティとアンリのそれぞれが、自己や時間に関する思想を通して、人間の精神、あるいは、人間の生をいかなるものとして描き出そうとしていたのかを検討したい。
身体の二つの現象学 村瀬 鋼
メルロ=ポンティとアンリは、共に身体の現象学を企て、身体の根源的存在を語ろうとするが、両者の見出しているその身体は、大きく異なっている。「超越」をこととするメルロ=ポンティの両義的身体としての肉は、「内在」において受け取られるアンリの主観的身体としての肉ではない。けれども、両者の身体の現象学の細部を眺めてみると、二つの現象学はたんに泣き別れであるのみではなく、各々の内的結構を損なわないまま互いに接続することも不可能ではないように思われる。今回の提題では、「超越」と「内在」とのこの二つの現象学の接続の若干の可能性を具体的に探ってみたい。
芸術をめぐって 本郷均
「芸術」といっても、メルロ=ポンティとアンリはいずれも基本的には絵画に重点を置いている。絵画が問題となるのはなぜか。メルロ=ポンティにとっては、それが「現実態の哲学」として、暗黙の存在論を表明してくれるからであり、アンリにとっては、それが生の直接的な表現だからである。このとき、メルロ=ポンティが依拠するのはセザンヌやクレーであり、アンリはもっぱらカンディンスキーである。興味深いことに、二人とも、それなりの造詣を有していたと考えられる音楽については、基本的には禁欲して多くを語らない。この近くて遠い・遠くて近い二人がどのように芸術から哲学を紡ぎ出したのか、その一端なりとも明らかにしてみたい。